2014年11月23日日曜日

お得でした「大垣城」


先日、大垣城に行ってきました。
その日は、大垣市の教育文化週間であり、
大垣市内では、いろいろなイベントが
開催されていました。
例えば、皇女「和宮」が将軍、家茂に嫁ぐ際の
行列にちなんだイベントが 催されており、
ホコ天などもあって賑わっていました。

そんな中、何も知らずに大垣城に行った私は、
「入城無料」の看板に大喜び(笑)
















大垣城は初めて行きました。
天守の周りはちょっとした公園になっていて、
子ども連れでも楽しめそうです。
天守自体は博物館になっていて、お約束の鎧兜
から大垣城周辺を再現したジオラマや、映像に
よる大垣市の紹介などをやっており、意外と
楽しめました。

中でも良かったのが、実際の火縄銃と弓に触れ
こと。
レプリカがおいてあり、自由に触っていい状態
になっていました。こんな機会はあまりないので、
しっかり担いできました。















博物館化された天守でしたが、飽きないように
工夫がされていて、とても楽しめましたよ。
これで無料で見れたので、とてもお得な「大垣城」
でした。
※2014年10月時点で、入城料は200円です。


















2014年10月23日木曜日

現存12天守「丸亀城」〜日本城郭検定に向けて


11月末受験する日本城郭検定合格に向けて、勉強を兼ねて、
全国の城を巡っています。

今回は、現存12天守の内の1つ「丸亀城」に行ってきました。

丸亀城の特徴は、何と言っても日本一の「高石垣」
写真でしか見たことがなかったので、実際に行ってみたいと
思い、ついに行ってしまいました。

丸亀城は、3層3階の木造天守を持っており、こじんまりとした
佇まいではありますが、唐破風千鳥破風で意匠を凝らして
おり、日本最小ながらもとても威厳に満ちています。

■大手門から見た天守
日本一の高石垣と日本一小さな天守が組み合わさって、
大手門から見た天守は、かなり高所にあり、攻撃する意思を
一気に失ってしまうような工夫が凝らされているようです。
枡形は右に90度、大手門には石落しが備えつけられ、
十分な防御力を備えています。





























■日本一の高石垣
天守を目指すためには、日本一と言われる高石垣を登りきる
必要があります。当然、坂道(見返り坂と言われるらしい)を
登る必要があるのですが、これがかなり急な坂道で、登るのに
ひと苦労です。
ただ、登りきった後には、美しい穏やかな瀬戸内海を背景とした
丸亀市が一望でき、素晴らしい景色を見ることができます。
(残念なことに、この日は台風が近づいていて、曇り空でした)

登りながら気づいたのですが、石垣は基本は切込接ですが、
写真でも分かる様に、下から上に行くに従い、 切込接でもその
完成度は高くなっていることが分かります。
築城までの数年で、石の加工技術が高まっていったことを物語って
いるように見えます。
(写真は、上の写真から順に、城の下部から上部に遷移する)

















天守と二の丸跡
頑張って登った先の天守閣は、やはり小さい(笑)。
本丸から二の丸跡がしっかり見えました。
二の丸には、現在も水が汲める井戸が存在しております。
この井戸は、丸亀城に伝わる悲惨な伝説(羽坂重三郎伝説
が伝わる井戸らしいです。













■おまけ(京極家紋と、亀岡城全貌図)












国宝「犬山城」〜日本城郭検定に向けて


11月末受験する日本城郭検定に向けて、勉強がてら、
近隣の城を巡っています。

今回は、国宝「犬山城」に行ってきました。
犬山城は、日本城郭検定の問題には、必ず出てくる城です。

犬山城は、愛知県犬山市にある 木造天守閣を有する
現存12天守の1つであり、かつ、国宝4天守の1つです。
別名「白帝城」とも言われ、木曽川を長江に、犬山城を
白帝城にたとえて、荻生徂徠が命名したと言われています。

江戸時代に尾張藩家老成瀬家が城代として入場して以来、
2004年まで成瀬家が所有する唯一の個人所有の城でしたが、
現在は財団法人「犬山城白帝文庫」に移管されています。

3層4階地下2階望楼型複合式。石垣は野面積で、
天守は標高88m程の小高い山に建っている平山城であり、
本丸までにはそれなりに階段を登る必要があります。


■天守と本丸
 

 

 











現存する木造天守の最上階からは、木曽川を一望でき、
とても素晴らしい眺めです。

■天守から木曽川の展望
 

■小牧長久手の戦い等が描かれている屏風


■途中の茶屋でいただいた「ぜんざい」 



当日は、近くのホテルで宿泊し、鵜飼を楽しみました。
木曽川からは、ライトアップされた犬山城と月が見事に
組み合わさり、とても美しい姿を見せてくれました。

■木曽川から望む、ライトアップされた犬山城と鵜飼





2014年9月14日日曜日

国史「瀬田丘陵生産遺跡群」の1つ『源内峠製鉄所』



先日、家の近くにある公園に子供と散歩に行きました。
その公園から1〜2分程度歩くと「源内峠製鉄遺跡」という遺跡があります。

この遺跡は、7世紀頃の製鉄所を復元したもので、製鉄したと思われる炉が
3基存在します。写真は、その姿を写したものですが、ぱっと見た感じでは、
何かの美術品のような形です。
近づいてよく見てみると、おそらく、円筒状の箇所で鉄鉱石を焼き、
その下の受け皿みたいな所で溶け出した鉄を抽出したと想像できます。














現地では、あまり詳しいことが分からなかったので、帰ってから色々調べて
みました。

源内峠製鉄所は7〜8世紀頃の遺跡です。
当時、日本は、藤原広嗣の乱に見られるように、まだ朝廷の力は十分とは言い難く、
近江にも紫香楽宮、大津宮などの都が造営されていました。
近江は、おそらく鉱山があったと考えられ、そこから得られる鉄は、
日本を統治する上でも重用視されていたに違いありません。
それを象徴するように、近江には、製鉄所が60カ所以上も存在します。
この公園付近にも、製鉄遺跡が数カ所存在し、「瀬田丘陵生産遺跡群」
として国史指定もされているようです。(知らなかった…)

有名な言葉ではありますが「近江を制するものは天下を制す」と言われますが、
それは、京都と東国を結ぶ要地という地政学上の話だけではなく、鉄資源という
要素も含まれていたに違いありません。
実は、『続日本書紀』にも、これに該当すると思われる記述(巻3)があります。
大宝3年に四品志紀親王(シホンシキノミコ)が、近江の鉄穴(カンナ:鉄鉱山)
をもらったという記述があります。

源内峠製鉄所。
今まで、7〜8世紀の遺跡を詳しく調べることはなかったのですが、
こんな身近に、当時の日本事情を推測できる遺跡があるとは知りませんでした。

私は戦国時代が大好きですが、もっと身近な遺跡にも興味を持ち、少しずつ
掘り下げて行きたいと思いました。






2014年9月7日日曜日

藤堂高虎の本拠地〜津城



三重県—津市に用事があったので、津市に行ったところ、
たまたま通りがかった津城跡(現、お城公園)に行って来ました。

■石垣
築城の名手、藤堂高虎が治めた津藩でありますが、
石垣は、高虎っぽく、奇麗にまっすぐな縁でした。












■藤堂高虎公
高虎は、何度も君主を変えていますが、
最後の君主、徳川家康からはとても重宝され、
外様ながらも譜代さならがらの待遇を受け、
家康の死に際しては、枕元にいることを
ゆるされた大名でもあります。

藤堂高虎は武勇や築城技術に優れており、
自身が活躍できる場を探し求めた結果、
君主を何度も変える事になったのだと思います。
今では、戦国時代の武将は君主に一生仕え、
その忠誠心を見せるものだという概念が一般的ではありますが、
実際には、そんなことはなかったと伺えるのが、この高虎です。
戦国時代、明日の命も分からない、その日暮らしの時代であり、
信じるものは自分の腕と頭だけでした。
その自分がどのような場で活躍できるか、それを考えて配置するのが君主です。
つまり、自分が活躍できる場にいられない限り、その君主の元を去るのは当然です。

これは、現代の会社組織にも当てはまると思います。

高虎の様に、自身の力量を認め、活躍の場を与えてくれる組織に出会うまで、
転職を繰り返すものありかもしれません。

■おまけ













2014年8月31日日曜日

出世の城、長浜城!


ちょっと前になりますが、お盆休みを利用して、長浜に行ってきました。

秀吉が初めて大名となった地であり、秀吉の人生を大きく変える事と
なった長浜城と小谷城がある土地でもあります。

■長浜城■

近代城郭の 始まりともされる長浜城天守は、
とても簡素な造りでした。望楼型の天守である事
が明確に分かり、その佇まいはこじんまりとして
いますが、ベースとなる母屋がしっかりしており、
小さい割には威風堂々としています。
長浜はかつて「今浜」と呼ばれていましたが、
信長らから彼の地を預かった秀吉が主君の一字を
取って「長浜」に改めたのだとか。
長浜城の建築材は、小谷城のモノを流用したとの
説もあり、無駄しない秀吉の商業的な才能も垣間
みる事ができます。
天守に関して建築当時の遺構は残っていませんが、
彦根城の天秤櫓は長浜城のモノを移築したとの説
もあります。






■展望台から観る風景■
長浜城の素晴らしい所は、5階から見える琵琶湖の美しい景色です。
当日は今年の盆休みにしては晴れていたので、その絶景を堪能できました。
写真は、その風景です。


左から彦根城、その右に安土城跡が観られ、秀吉が城主だった当時に彦根城
はありませんが、壮大な安土城が見えていたに違いありません。
長浜で初の城持ち大名となった秀吉。君主信長の居城、安土城を観ながら、
何を思ったのでしょうか

■小谷城跡■

晴れていたので、小谷城跡も行ってみる事に。
小谷の山をぐるっと回ってみるつもりでしたが、
一周、5km近くもあり、子供を連れていた僕には
無理でした。
ってよりも、何の装備もしていなかったので、
一人でも無理でしたね。
次は装備をしっかりしてまた挑戦しよ!
歴史資料館は、こじんまりしていましたが、
4年前の大河ドラマ「江」でかなり整備されたよう
で、浅井家の歴史が、きれいなパネルで紹介して
あるのと、小谷城の山城の様子がジオラマで再現
してあり、結構楽しめました。
入館料は300円で、所用時間はじっくり観ても30分
程度でしょうか。








■長浜、小谷とは■
浅井を攻め滅ぼし、長浜城の城主となった秀吉。
琵琶湖の水運を利用した経済性に目を付け、早期に城下町を整備していき、
後の中国攻めの礎を築きました。
信長も秀吉も、既に「貨幣経済」の重要性に気づき始めており、商人を中心
とした城下町を整備し、多くの商人を抱え、経済の拡大を目指していました。
それこそが、日本を制覇する唯一の方法だと考えたのではないでしょうか。



2014年8月15日金曜日

黒田官兵衛〜人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり


7月に、大河ドラマ「黒田官兵衛」
は後半戦に突入しました。
その前半戦最後とも、後半戦最初
とも言えるのが「本能寺の変」では
ないでしょうか。

江口洋介が演じる織田信長は家臣、
明智光秀討たれ、夢半ばで果てます。
光秀が信長を討ち果たした理由は、
昔から様々な研究により、諸説あり、
古くには、
「徳川家康の接待時の不備の指摘」
「領国配置換え」
などと言われておりますが、最近は
「四国攻めの長宗我部との調整反故」
「朝廷陰謀説」
など、様々な説も生まれています。
どの説も魅力あるストーリーで、
歴史への想いを熱くさせます。

さて、大河ドラマ「黒田官兵衛」は、
どの説にもよる事無く、今までの説
ベースにNHK独自にアレンジした
があります。
信長が天皇中心とした朝廷政治を崩壊
させ、信長自身が日本の君主となる
政治体制を考えており、それに反旗を
翻したという形です。

歴史にIFは禁物ですが、IFを考え
るからこそ、楽しいというもの。
このNHK独自の考察で、仮に信長が
本能寺で討たれていなかったら、
どのような日本になっていたのでしょう。

筆者が思うに、日本は現在のアメリカ
合衆国のような連邦政府に近い形に
なっていたのではないかと思います。
信長は当時としては珍しく、方面軍団
という思想で領国経営していました。
信長一人で天下布武を成すには日本は
広く、時間もない。どうすればもっと
効率よくできるか。
その結果生み出されたのが「方面軍団」
という考え方です。
これは、信長の主立った武将達を
地方に進軍させ、信長武将と戦国大名
を対峙させる。兵力が足りない方面に
は遊撃軍を送る。
各方面の大将は、信長の大方針に
従って動くが、基本的には自由な裁量
があり、目標に従い、着実に実行する
だけというシンプルな仕組みです。

具体的には、
北陸方面軍
 大将:柴田勝家、敵対大名:上杉謙信
甲府方面軍
 大将:滝川一益、敵対大名:武田勝頼
関東方面軍
 大将:徳川家康、敵対大名:北条 氏政
中国方面軍
 大将:羽柴秀吉、敵対大名:毛利輝元
四国方面軍
 大将:織田信孝、敵対大名:長宗我部元親
が挙げあれます。
遊軍には、明智光秀、丹羽長秀など、
名将が揃っており、当時の織田家は、
まさに名実共に日本を制覇するだけの
力量と仕組みができていました。

仮にこの方面軍団が活躍し、日本統一を
成し遂げた場合、信長は基本的には、
切り取った領地は切り取った武将に与えて
いましたので、規模や配置換えは多少ある
にしても、方面軍の大将がその地を治めた
考えられます。

先に挙げた方面軍は、家康以外は信長
の家臣ですが、織田家の柱をなす重臣
であり、どの武将も領国経営能力には
長けており、間違いなく「日本合衆国
が誕生していたでしょう。

今、熱い議論となってりる「道州制」。
実は450年も前に、信長自身も
考えていた政策であるかも知れません。



















2014年6月15日日曜日

名古屋城、攻略!


先週の大阪城に続き、名古屋城も攻略してきました(笑)


私は、名古屋出身なのですが、実は、名古屋城には一度も
行った事が無く、城好きとしては恥ずかしいばかりです。。

当日は梅雨時にも関わらず、天候に恵まれ、とても奇麗な
天守と復元最中だった本丸御殿を堪能できました。





■天守
「尾張名古屋は城でもつ」と言われた程ですから、やはり
とても素晴らしい天守です。
大阪城に引けをとらない荘厳さがあり、御三家筆頭の城と
しても恥ずかしくない風貌を備えています。
清正流の扇の勾配で威風堂々とした天守台と巨大な天守。
それだけで敵を威嚇するのに十分な姿。
さすが三名城。熊本城、姫路城と肩を並べるだけはあります。





















■鯱
名古屋城と言えば、金の鯱。
建築当初は、200kgぐらいの金で作られていたらいしですが、
現在は、88kgらしいです。
(それでもすごいけど・・・)




















■西北隅櫓
現存する櫓の2つの内の1つ(1つは修復中)
小天守に負けないくらいの威風があります。
千鳥破風が内側(外からは見えない側)にもついており、
贅沢さといいますか、時の政権の巨大さが分かります。
水堀に面しているので、外側は近くからは確認できません
が、石落とし付きの千鳥破風でできた出窓が特徴的。
ちなみに、清洲城から持ってきた部材が使われている
という可能性もあり、清洲櫓とも呼ばれています。




















■徳川義直著、「夢」
天守内の博物館で観ることが出来ます。
名古屋城は、家康の9男、徳川義直の居城でした。
その義直が書いたものと伝わります。
通常であれば、9男は出家して当然の世の中。それが何か
の縁で、1国をまかされる大名になりました。
義直は、何を思って綴ったのでしょうか。



















■本丸御殿
現在、復元中ですが、既に一部が公開されており、中に
入れます。靴箱など、現代的にアレンジされていますが、
玄関以降は、当時の復元と思われます。
内装はとてもすばらしく、柱、襖、天井、どれも見事です。
熊本城の本丸御殿は、煌びやかでとても素晴らしいですが、
名古屋城の本丸御殿は、質素の中にも品が漂い、こちらも
またとても良いです。
ちなみに、今なら復元の様子が見られます。
(復元中に出た木の切れ端ももらえます)