2014年8月31日日曜日

出世の城、長浜城!


ちょっと前になりますが、お盆休みを利用して、長浜に行ってきました。

秀吉が初めて大名となった地であり、秀吉の人生を大きく変える事と
なった長浜城と小谷城がある土地でもあります。

■長浜城■

近代城郭の 始まりともされる長浜城天守は、
とても簡素な造りでした。望楼型の天守である事
が明確に分かり、その佇まいはこじんまりとして
いますが、ベースとなる母屋がしっかりしており、
小さい割には威風堂々としています。
長浜はかつて「今浜」と呼ばれていましたが、
信長らから彼の地を預かった秀吉が主君の一字を
取って「長浜」に改めたのだとか。
長浜城の建築材は、小谷城のモノを流用したとの
説もあり、無駄しない秀吉の商業的な才能も垣間
みる事ができます。
天守に関して建築当時の遺構は残っていませんが、
彦根城の天秤櫓は長浜城のモノを移築したとの説
もあります。






■展望台から観る風景■
長浜城の素晴らしい所は、5階から見える琵琶湖の美しい景色です。
当日は今年の盆休みにしては晴れていたので、その絶景を堪能できました。
写真は、その風景です。


左から彦根城、その右に安土城跡が観られ、秀吉が城主だった当時に彦根城
はありませんが、壮大な安土城が見えていたに違いありません。
長浜で初の城持ち大名となった秀吉。君主信長の居城、安土城を観ながら、
何を思ったのでしょうか

■小谷城跡■

晴れていたので、小谷城跡も行ってみる事に。
小谷の山をぐるっと回ってみるつもりでしたが、
一周、5km近くもあり、子供を連れていた僕には
無理でした。
ってよりも、何の装備もしていなかったので、
一人でも無理でしたね。
次は装備をしっかりしてまた挑戦しよ!
歴史資料館は、こじんまりしていましたが、
4年前の大河ドラマ「江」でかなり整備されたよう
で、浅井家の歴史が、きれいなパネルで紹介して
あるのと、小谷城の山城の様子がジオラマで再現
してあり、結構楽しめました。
入館料は300円で、所用時間はじっくり観ても30分
程度でしょうか。








■長浜、小谷とは■
浅井を攻め滅ぼし、長浜城の城主となった秀吉。
琵琶湖の水運を利用した経済性に目を付け、早期に城下町を整備していき、
後の中国攻めの礎を築きました。
信長も秀吉も、既に「貨幣経済」の重要性に気づき始めており、商人を中心
とした城下町を整備し、多くの商人を抱え、経済の拡大を目指していました。
それこそが、日本を制覇する唯一の方法だと考えたのではないでしょうか。



2014年8月15日金曜日

黒田官兵衛〜人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり


7月に、大河ドラマ「黒田官兵衛」
は後半戦に突入しました。
その前半戦最後とも、後半戦最初
とも言えるのが「本能寺の変」では
ないでしょうか。

江口洋介が演じる織田信長は家臣、
明智光秀討たれ、夢半ばで果てます。
光秀が信長を討ち果たした理由は、
昔から様々な研究により、諸説あり、
古くには、
「徳川家康の接待時の不備の指摘」
「領国配置換え」
などと言われておりますが、最近は
「四国攻めの長宗我部との調整反故」
「朝廷陰謀説」
など、様々な説も生まれています。
どの説も魅力あるストーリーで、
歴史への想いを熱くさせます。

さて、大河ドラマ「黒田官兵衛」は、
どの説にもよる事無く、今までの説
ベースにNHK独自にアレンジした
があります。
信長が天皇中心とした朝廷政治を崩壊
させ、信長自身が日本の君主となる
政治体制を考えており、それに反旗を
翻したという形です。

歴史にIFは禁物ですが、IFを考え
るからこそ、楽しいというもの。
このNHK独自の考察で、仮に信長が
本能寺で討たれていなかったら、
どのような日本になっていたのでしょう。

筆者が思うに、日本は現在のアメリカ
合衆国のような連邦政府に近い形に
なっていたのではないかと思います。
信長は当時としては珍しく、方面軍団
という思想で領国経営していました。
信長一人で天下布武を成すには日本は
広く、時間もない。どうすればもっと
効率よくできるか。
その結果生み出されたのが「方面軍団」
という考え方です。
これは、信長の主立った武将達を
地方に進軍させ、信長武将と戦国大名
を対峙させる。兵力が足りない方面に
は遊撃軍を送る。
各方面の大将は、信長の大方針に
従って動くが、基本的には自由な裁量
があり、目標に従い、着実に実行する
だけというシンプルな仕組みです。

具体的には、
北陸方面軍
 大将:柴田勝家、敵対大名:上杉謙信
甲府方面軍
 大将:滝川一益、敵対大名:武田勝頼
関東方面軍
 大将:徳川家康、敵対大名:北条 氏政
中国方面軍
 大将:羽柴秀吉、敵対大名:毛利輝元
四国方面軍
 大将:織田信孝、敵対大名:長宗我部元親
が挙げあれます。
遊軍には、明智光秀、丹羽長秀など、
名将が揃っており、当時の織田家は、
まさに名実共に日本を制覇するだけの
力量と仕組みができていました。

仮にこの方面軍団が活躍し、日本統一を
成し遂げた場合、信長は基本的には、
切り取った領地は切り取った武将に与えて
いましたので、規模や配置換えは多少ある
にしても、方面軍の大将がその地を治めた
考えられます。

先に挙げた方面軍は、家康以外は信長
の家臣ですが、織田家の柱をなす重臣
であり、どの武将も領国経営能力には
長けており、間違いなく「日本合衆国
が誕生していたでしょう。

今、熱い議論となってりる「道州制」。
実は450年も前に、信長自身も
考えていた政策であるかも知れません。