2013年12月5日木曜日

日本城郭検定〜受けてきました!

この前の日曜日に受けてきました、日本城郭検定。
場所は、大阪商業大学で、住まいのある滋賀県
からは、かなり遠い…。
なんで、こんなアクセス悪いところでやるのか?
って思いますね(笑)

試験会場に着いてびっくりしたのは、受験者層。
城マニアのオヤジ達ばかりかと思いきや、小学生
や若い女の子もかなりいた…。しかも、小学生には
親もいて、分厚い参考書片手に試験開始直前まで、
一緒に勉強してました…。

この時点で、イヤな予感はしましたよ…。

さて、当の試験は、そこそこできたものの、やはり、
それなりに難しく、自己採点では、合格圏内には
届かなかった模様。
悔しいけど仕方ないか…泣

問題は、四択のマーク式で、城の特徴から城の名前を
選択したり、城の構造や、関係する武将など、まぁ、
基本的なことなんだろうなって思う問題でした。

悔しいし、また、受けよ!



2013年11月24日日曜日

日本城郭検定〜石垣の積み方


今日は石垣の積み方。

1.野面乱積(のづららんづみ)
未加工の自然石を積み上げた石垣。
積み上げた石材の大きさが異なるため、横目地が通らない。

2.野面布積(のづらぬのづみ)
未加工の自然石を積み上げた石垣だが、ほぼ大きさのそろった
石材を横方向に並べている為、横目地が通る。

3.打込接乱積(うちこみはぎらんづみ)
荒割石の接合部を加工し、隙間を減らした積み方。
隙間には間詰石が詰められた。

4.打込接布積(うちこみはぎぬのづみ)
規格加工材を使用し、ほぼ横方向に目地が通る。
石材間の隙間には間詰石が詰められている。

5.切込接乱積(きりこみはぎらんづみ)
石材を徹底的に加工し、隙間を全くなくした石垣。
石材の大きさは統一されていないため、多角形をした石が多い。

6.切込接布積(きりこいはぎぬのづみ)
石材の横目地が通る様に、規格化された切石を隙間なく積み上げ
た石垣。

甲冑の袖〜甲冑護符


先日、戦国魂さんで購入した「甲冑護符」が本日届きました。













想像よりサイズが小さかったけど、よく見るとかなり出来はいい!
一つ一つ手作りされているようで、造りはしっかりしている。

携帯ストラップのようだけど、スマートフォンユーザーなので、
使い道はないか…w

何かの縁なので、この「袖」を調べてみました。

古くは「肩鎧」と呼ばれていたようで、二の腕を防御するために
あるようです。
左の袖を「射向の袖」、右の袖を「馬手の袖」というらしく、
右利きで弓を射るときに、左腕が前にくるから「射向きの袖」。
馬の手綱を握るのは、右手なので、右側が「馬手の袖」。
(ちなみに、右手側を馬手(めて)というらしい)




2013年11月16日土曜日

日本城郭検定〜三大湖城


今回は、湖城。

「湖城」とはあまり聞いたことがなかったが、要は、湖など
に浮かび上がる城という理解で良いだろう。

日本三大湖城は、
1.松江城(島根県)
2.膳所城(滋賀県)
3.高島城(長野県)
である。

1.松江城
宍道湖から引かれている堀川に浮かぶ、平山城。
石垣構築には、人柱伝説が残る、興味深いお城。














2.膳所城
琵琶湖の南西(ほぼ南)に位置し、大津城、瀬田城、坂本城
に並ぶ、琵琶湖の浮城の1つ。
4重4階という天守があったとされ、湖面に映る城の姿は、
瀬田の唐橋からねぎぼし、水に浮かぶは膳所の城」と詠われる
ほどであった。
関ヶ原の合戦時代、京極氏が治める大津城が既に存在していたが、
合戦が終わると、大津城は廃城、幕府の第一号普請事業として
膳所城が建造される。
設計は、城造りの名人、藤堂高虎。3万石の譜代大名として戸田氏
が入場し、以後、この要地を統治する城となる。









3.高島城
別名「諏訪の浮城」と呼ばれ、諏訪湖に突出した城であった。
しかし、江戸初期に諏訪湖の埋め立て事業が始まり、湖面に
映る姿は見られなくなる。
日根野氏により3重天守が造築され、近世城郭の姿をみせたが、
軟弱な地盤の為、木材を筏状に組み、その上に石垣が作られる
という当時としては最先端の技術を用いて建造された。













2013年11月11日月曜日

日本城郭検定〜三大山城

今日は三大山城について。

日本三大山城は、以下の3つをさす。

1.岩村城(岐阜県)
2.備中松山城(岡山県)
3.高取城(奈良県)

1.岩村城
標高717mに位置する、日本で最も高い場所に位置する城である。
また、築城は鎌倉時代にまで遡り、700年という長い歴史を刻む
城でもある。
武田家の侵略時、遠山景任が没し、その妻が采配を行ったこと
から、「女城主」の歴史も持っている。









2.備中松山城
現存天守であり、天守、二重櫓、土塀が重要文化財に指定されて
いる。
海抜430mに位置しており、本丸へ続く道は1500m程、約1時間の
山道を歩くこととなる。現存天守が存在する城跡で、日本一高い
場所に存在する。
気象条件が揃えば、雲海にそびえる優雅な山城を観ることが出来る。









3.高取城
標高583mに位置する、比高が日本一(390m)の山城。
南北朝期に築かれた。










2013年11月10日日曜日

日本城郭検定〜三大平山城




12月の検定に向けて、勉強だ!

今回のテーマは「三大平山城

平山城は、
 津山城(岡山県)
 和歌山城(和歌山県)
 姫路城(兵庫県)
 松山城(愛媛県)
の4つである。
三大平山城なのに、なぜ4つか?
それは、人によって組み合わせが異なる為らしい(笑)

松山城は、標高100m程であるが、他の3城は、50m前後
であり、松山城はほぼ、山城といってもいいくらいだ。
松山城が、平山城と考えられる所以は、山頂部と山麓部
の密接性からであり、山頂部と山腹の二の丸を竪石垣
(登石垣)で連結しており、一体化を図っているためだ。

他の城も丘陵の使い方という意味では、それぞれ特徴
があり、後世の人々がひっくるめて「三大」とは言って
いるが、実際には、既にある地形をどのように活用する
かということに苦心したと考えられる。

ちなみに、筆者は大学時代、松山市に住んでいたので、
松山城には思い入れがある。
毎年春は、とても桜が奇麗だ。絶景ともいってよい。
夜はライトアップされており、大手までは登山できる。
山頂から見る松山市もまた奇麗であり、松山城を中心に
こじんまりと発達している松山市は便利で、気候も温暖
であり、歴史に触れる機会も多く、とても住み良い市で
ある。

【写真】
1.津山城









2.和歌山城










3.姫路城










4.松山城













2013年10月27日日曜日

日本城郭検定





つい先ほど、「第三回 日本城郭検定」に申し込みをしました。

こんな検定があることも知らなかった。
レベルの高い順に1級、2級、3級とあり、今回受験するのは3級。

練習問題があって、挑戦してみたら、3級でも合格が怪しい感じ。
お城は好きで、見学を目的に旅行までするのに、いざ、検定という
ものになると、殆ど回答できなかった。。。

もっとちゃんと勉強して知識体系として学びたいと思ったので、
受験してみることにした。
これから学び直すぞ〜〜!




2013年10月24日木曜日

歴史で地域振興〜「戦国魂」さん



久しぶりに「戦国魂」さんのホームページにアクセスした。

相変わらず魅力的なアイテムを扱っている。。。
嫁の目を盗んで(笑)、信長の野望「創造」とコラボした
甲冑護符」を予約。
本当は、同じくコラボ商品である「南蛮兜」が欲しかったが、
30万もしたので断念(泣)。
もう少し手の届く値段設定であってほしい。。。

予約後、戦国魂さんのHPを散策していたら、興味深いことを
発見!
なんと、戦国魂さんは、地域振興のコンサルまでやっている
ではないか!講師派遣や企業、地域とのコラボレーションを
行い、地域活性や歴史企画で盛り上げる。とても興味深い。

私は常々、地域振興には以下の3つが主要なポイントである
思っている。
過去に堺屋太一氏がポイントを7つとして挙げていたが、
さらに絞るとこれら3つに収まると私は考えている。)

1.歴史、風土
自然
グルメ

誰もが旅行をしたことがあると思うが、必ずこれら3つの
ポイントを踏まえて計画をしているはずだ。

観光スポットは必ず歴史的な建物や遺跡、遺構、その地域の
風土を示す建物や物であり、または、滝、湖、断崖絶壁など
の自然造形物でもある。
また、ランチ、ディナーには、必ず地域の食文化を体験する。

つまり、これら3つの内、1つでもアピールすることができ、
それが観光客の心を捉えることができれば、観光スポットと
して旅行産業の舞台に立てる
ちなみに、宿などのインフラは、観光スポットと認められて
から考えるべきである。認められる前に考えると、不良債権
を負うこととなる。

「戦国魂」さんの事業、かなり興味深い。


2013年10月17日木曜日

上杉謙信の用兵術

昨日もNHKの歴史ヒストリアを観てしまい、上杉謙信の用兵術について語っていた。

謙信軍団が強力であった理由として「軍団の規模」と「柔軟な用兵術」を挙げている。

軍団の規模で言うと、謙信軍団の総数は、それほど多くない。大抵は8000人規模で
戦っていた。謙信が越後の大名をしている期間、それほど領地を広げてはいない。
「義」の武将であった謙信は、私利私欲のための領地拡大を望んではいなかった為、
越後一国の大名だった。だが、宿敵、武田信玄は、溢れでる野望により、着々と領土
を拡大。ついには甲斐と信濃を制し、国数だけで考えても、単純計算で軍団規模は
謙信の2倍にはなる。(話を簡単にしているだけであり、実際は、甲斐と信濃の国力
を計算にいれなければならない)

かの有名な第4次川中島の戦い(山本勘助が立案した啄木鳥戦法が行われた戦い)
では、武田信玄軍20000に対し、謙信軍は8000。基本的には数の優劣が戦の勝敗を
決めることには間違いないので、謙信軍としてはかなりの苦戦を強いられること
となると考えられた。
しかし、結果はご存知の通り、信玄軍の大敗となる。信玄は、この戦いで、山本勘助
や武田信繁ら有力武将が多く戦死し、窮地に陥っている。

この戦いでは、謙信の戦い方が色濃く出ていると言える。

1つは、軍勢が8000人という規模を活かした「機動性」である。
謙信は妻女山に布陣していたが、信玄の策(謙信軍の後方から奇襲し、謙信軍が下山
したところを正面から挟み撃ちする。)を見抜いた謙信は、夜の内に即座に兵を移動。
信玄本体の正面に布陣し、早朝、手薄となった信玄軍に逆に奇襲を仕掛けている。

軍事アナリストによれば、8000人という規模は、制御しやすく、攻撃力もある
というバランスのとれた規模らしい。
確かに数万という数の軍団を動かすには、時間もかかり機動力としては欠ける部分
もあろう。

謙信の戦い方がでている、もう1つは、「状況に合わせた用兵」である。
第4次川中島の戦いでは、謙信特有の「車懸の陣」という陣形が用いられたと考え
られている。従来の説だと、本陣形は、部隊を順に、車輪の様に回転させて、敵に
あたらせるという考えだったが、最近の研究では、そうではなく、消耗してきた
部隊に対し、後方から援軍を送り、常に一定の兵力の様に見せるという陣形では
ないか?という。
前線の状況に合わせて、必要な箇所に兵力を投入する。理に叶った戦法である。


現代社会における大企業では、肥大した組織が硬直化し、効率よく統制できなく
なってきている。また、一定の手続きや処理をしないと物事が進んでいかないなど
柔軟性に欠ける部分は多く存在する。

JALを再生させた稲盛和夫が提唱している「アメーバー経営」では、組織を細分化し、
強力なリーダーの下、細分化された組織単位に意思決定を行い、独立採算を行う
こうすることで、組織が柔軟となり、迅速な意思決定と経営への参画意識を全社員
に持たせることが出来る。
という理念の元に成り立っている。
少し強引かもしれないが、謙信軍団と類似している点は多々あろう。

迅速な意思決定に必要な人数規模、そして、柔軟な思考力。

この2つは戦国時代から引き継がれている重要なキーワードだと考えている。






2013年10月10日木曜日

武田信玄の家臣統率術

昨日、NHKの歴史ヒストリアで武田信玄の家臣統率術をやっていた。

信玄は、家臣を統率する上で、成果主義」と「いたわり」を大切にしていたらしい。

成果主義は文字通りのことだが、徹底ぶりがすごい。
戦の時もすぐに恩賞を与えられるよう、金を保持していたといわれており、一般的に
論功は戦が終わった後という常識を打ち破っている。
また、いたわりに関しては、甲府の秘湯に家臣を招待したり、まめに家臣に手紙を
送ったりしている。手紙の中にも、信玄の気遣いがあり、「今からそちらに向かうが、
接待や掃除は不要」など、家臣に無駄な気を遣わせない努力をしている。
このような「主人の家臣への気遣い」をベースにした、武田家は、「武田24将」と
言われる程の強固な、団結力を持った軍団を築き上げている。
※「24将」というが、30人近い武将が一致団結するなど、利害関係が行動規範となる
 戦国の世としては大変めずらしく、それを考えると、武田信玄の統率力、人間力は
 かなりのものであったに違いない。

これは、現代社会でも十分に通じると考えられる。

日本の会社は、そのほとんどが半年に1度、社員評価が行われる。
しかも、評価を最終的に下す人は、現場の人間とかけ離れており、直属の上司の報告
次第となり、直属の上司にどれだけ「気に入られているか」が問題となる
また、半年の仕事を平準化して捉えられてしまうため、1度の成功は1度の失敗により、
帳消しとなる。
ここでは、リアルタイムに評価される仕組みが必要だ。
戦国時代の様にすぐに「砂金で」とはいかないので、ポイント制がよいと考える。
成功、挑戦には、プラスポイント。失敗、怠惰にはマイナスポイントを都度、与える。
これには、側面が偏らない様、複数評価を取り入れる必要がある。

また、「いたわり」に関しては、人間味あふれる上司が少なくなってきている。
これは、無駄に酒を誘う上司ではない。
自分の作業に追われ、評価を気にし、組織の成長を止めてしまうリーダー、上司は
いくらでもいるが、正論だけを吐かず、現場の状況に合わせた言動を行えるリーダー、
部下の成長をしっかり考える上司は少ない。
ましてや、部下に気を遣うなど、考えも無い上司が多い。歳をとって管理職となった
人は、えらくなったと勘違いしているのではないか?上司が部下を支えているのでは
ない。組織の下が上を支えている。これは間違いの無い事実である。
そのために、上は下に気を遣い、下が思いっきり仕事をできる環境を作る必要がある
その役割を果たしてこそ、24将という心強い集団が出来上がるのだ。





2013年7月20日土曜日

参院選を迎えて〜歴史認識と外交

明日は参院選である。

ここで、政策を議論する訳ではないが、最近、日本と韓国、日本と中国との関係悪化についてしっかりと考えたい。

双方とも、発端は「領土問題」である。改めて記述する必要も無いが、韓国とは竹島、中国とは尖閣諸島である。韓国との関係に至っては、橋下大阪市長の慰安婦問題もある。

私は領土問題に関しては、双方とも日本の固有領土だと考えている。それは、日本国民としての感情と、僭越ながらも少しだけ勉強した結果である。

ただ、ここでは領土問題を議論したい訳ではない。
この問題を発端とした歴史認識と、それによる日本の外交姿勢について議論したい。

日本は、戦前、帝国主義を掲げ、朝鮮を植民地化した。
朝鮮の植民地化はあくまで中国からの独立と、迫りくるロシアからの脅威を退けるためである。併合時期、日本は朝鮮に学校などの教育機関を充実させ、身分制度も廃止、土地所有権問題も解消し、農民も土地の保有ができるようになった。つまりは、この時期に朝鮮は、近代化を迎えた訳である。

これはまぎれも無い事実である。

そして第二次世界大戦で日本は敗北、無条件降伏を詠ったポツダム宣言を受け入れ、韓国を放棄した。

慰安婦問題に関しては、私の個人見解だが、強制された方もおられるだろうし、そうでない方もいたのだろうと思う。ただ、これは日本政府によりアジア女性基金が設立され、元慰安婦に対する補償がされている。(韓国内による弾圧で受け取れなかった元慰安婦もいるらしいが)

さて、これ以上の譲歩を求める韓国は、何を日本に求めているのだろうか。
仮に日本が多額の補償金を出すと判断した場合、どれほど払えば、過去のすべてを清算できるのだろうか。

そもそも、歴史問題は、多かれ少なかれ、どこの国の間にも存在する。
蜜月な雰囲気を醸し出している韓国と中国でさえ、古くは、韓国は中国に攻められて属国扱いになっているではないか。

そのような関係はありつつも、首脳同士が、両国の未来の発展と、北朝鮮の危機に着いて、冷静に話し合うのが成熟した外交というものだと思う。
それを「歴史認識の相違」という理由で、会談もしない韓国の朴大統領は、外交感覚は皆無に等しい。(だた、自国経済の閉塞を、外交カードで制御しているという考えもでき、本心からの言動とは思えない節もある)

ヨーロッパを見習ってほしい。
アジアよりも深く、暗い歴史を持っていながらも、EUという一大組織を作り上げ、経済と外交においてアメリカと対抗しうる勢力を作り出そうとしているではないか。

今、アジアは最後の市場と言われ、外資の多額の拠出で盛り上がりを見せている。
アメリカ、EUと対抗できる第三局にASEANがなれるかどうかである。

歴史問題、領土問題で喧嘩している時ではない。
日本や韓国、中国という「国」自体が生き残れるかどうかの時代になっている。

もっと未来をみるべきではないか。













2013年7月14日日曜日

明月記に超新星爆発が記載されていた。。。

先日、こんな記事を見つけました。


藤原定家の超新星爆発を解明 「明月記」に記録、京大


私の勉強不足で、「明月記」というものを知らなかったのですが、
これは、和歌で有名な藤原定家により、記述されたいわゆる日記
ですが、歴史的、科学的な価値は十分にあるものらしいですね。

今は完全分業が普通で、専門職が強い職業が多いのが普通ですが、
アリストテレスやレオナルド・ダ・ヴィンチなど、哲学者や芸術家
でありながら、科学者でもあり、という多種多様な側面をもった
人物というのが、とても素晴らしいと思います。

多様な価値観で磨かれた感覚で物事を見ているからこそ、
素晴らしい歌や思想、芸術が生まれるのでしょうか。

2013年7月7日日曜日

一乗谷遺跡にいってきました。

ちょっと前に、一乗谷に行ってきました。
ずっと昔、小学生の頃、父につれられて来た記憶はあるのですが、
ほとんど覚えていませんでした。

そこで、今度は妻と3歳の子供を連れて、来てみました。
子供の頃は全く印象に残っておらず、大して感動もしなかったの
ですが、今回は、かなり感動しましたよ!

まず、ロケール。
山と山に囲まれて、閑静であり、ちょうど雨が上がった後だったので、
空気もとてもきれいで、本当に奇麗な場所でした。

次に、遺跡。
門や壁ぐらいしか残っておらず、建物は基礎しかのこっていませんが
邸宅内を流れていたと思われる川や庭が密かに残り、当時の面影の
想像を掻き立ててくれます。

越前朝倉氏は、元々は守護代でしたが、後に守護大名となり、
ここ一乗谷に小京都と呼ばれるくらいの町並みを形成し、その人口は、
当時の地方都市では最大と言われていた程の人口が集まっています。

一乗谷は、東、西、南を山々に囲まれ、天然の要塞でありながら、
自然豊かな土地であったため、過ごしやすい土地であったのでは
ないでしょうか。


<一乗谷遺跡に入る門>














<裏山から遺跡を臨む














遺跡正面(写真奥)は、芝生になっていて、暇になった子供は
はしゃいでいました。(笑)


さて、余談ですが、帰りは、一乗谷から30分くらい車で
走ったところにあるそば屋さんで、辛みそばを食べました。

つゆが、辛くて、刺激的でしたが、とてもおいしかったです。







2013年6月30日日曜日

インカ帝国以前の王族の墓を発見

昨日のニュースです。




インカ帝国の前には、ワリ帝国があったことが知られているらしいですが、
詳細は、未だ、謎に包まれているとのことです。

面白いのは、ワリ帝国滅亡後、300年を経過して、インカ帝国が成立して
いるということ。そんなに年月が経過していながらも、ワリ帝国の文化や
支配方法などが引き継いでいているという。

インカ帝国という、世界史上の一大帝国・文明も、一夜でできた訳ではなく、
長い年月の積み重ねがあり、成立しているということであろう。

改めて、「ローマは一日にしてならず」を思い起こしました。

2013年6月23日日曜日

本能寺の変、明智光秀の黒幕はいたのか?

最近の歴史研究により、過去に私たちが教科書で習った事項とは
全く別の事象が証明されていることが多々あります。
鎌倉幕府の成立年もそうですね。最も、これは「捉え方」という
視点でもありますが。

さて、今回は、少し前にもテレビで紹介されたらしいのですが、
本能寺の変で明智光秀が織田信長を討った、あの有名事件が対象
です。

光秀が信長を討った本能寺の変。私が学生の頃は、光秀挙兵の
理由は、「土地を強引な転封」「徳川家康接待時の失敗における
叱咤のため」等がささやかれていました。
その後、朝廷の陰謀という陰謀説もありましたが、最新の研究では
「四国討伐」が関わっているらしいというのがあります。

当時、北陸方面軍の柴田勝家は上杉家を、関東方面軍の滝川一益は
武田家を、中国方面軍の羽柴秀吉は毛利家を攻めていました。
明智光秀といえば、四国方面を担当しておりましたが、ここは武力
攻略ではなく、長宗我部家と和解による攻略を光秀が進めていました。
しかし、信長は従来の方針を変えて、四国の武力攻略にでたらしい
のです。
それに面目を潰された光秀が、怒り心頭により、本能寺の変を起こした
という説です。

まだ、私の中で整理できていませんが、どの道、信長に対し、嫌気が
さしたことは間違いないのでしょう。









2013年6月22日土曜日

安土城跡

滋賀県、安土町にある安土城跡に行ってきました。

今まで、興味はあったのですが、城跡ということもあり、
積極的に行こうとは思っていませんでした。
今回、行くことにした理由は、ずばり、息子を遊びに
連れて行くため・・・という感じでした。
ですから、あまり期待していなかったのですが、その期待を
裏切られ、かなりいい城跡でしたよ。

<入り口から城跡を臨む>


この写真は、拝観料(500円)を払う入り口から山側を撮った
写真です。石段が永遠と続き、かなり登るは大変です。
ちょうど写真に写っている箇所は、羽柴秀吉の宅地があった
場所です。その向かい(写真には写っていませんが、右側)
に、前田利家の宅地があったと伝えられています。

さて、ずっと山を登って行くと、最後は天主跡に着きます。
当然、天主などないのですが、天主を支えていてた土台は発掘されて
おり、今でも見学できます。
ちょっと見た感じは小さめに見えましたが、実際はかなりの大きさ
だったということらしいです。
ちょうど、家と同じですね。基礎を見ると、小さく見えるけど、
実際建ってみると、大きく感じる。

<天主跡から琵琶湖側を臨む>


上の写真は、天主跡から琵琶湖側を撮影した写真です。
あまり天気がよくなく、残念ですが、天気がよければ、琵琶湖は
一望できたと思います。
信長が安土城を建築した当時、西側(写真側)は、すぐ琵琶湖
だったらしいので、当時であれば、この写真には、一面の湖だった
のでしょう。
琵琶湖は、淀川に通じる水路をもっていたので、長浜城や坂本城も
琵琶湖に面しており、水運を利用した経済圏を作っていました。


<天主模型>
 


















上の写真は、駐車場近くにあった休憩所に展示されていた天主の
模型。内部がわかる様になっています。
結構、大きく、じっくり見れました。


全体として、こじんまりとした城跡でしたが、やはり名城と言われた
安土城。跡となっても、深い感銘を受けました。

あまり調べられていないので、情報不足ですが、このような城跡や
現存の城を中心に、日本の歴史を少しずつ、復元してくべきだと
思います。そして、重要な観光資源として活用すべきです。

安土城は、
 ・京都に近く、日本の歴史が深く知れる。
 ・信長はかなり有名。
 ・滋賀は、自然豊かで、歴史のみでない。
 ・大阪も近く、交通の便がよい。
という利点もあり、しかけをつくれば、十分な観光地になると
思います。

ちなみに、これは、私が生涯を通してやりたいことの一つです。
もう少し、勉強して、夢を形に変えたいと思っています。

















2013年6月16日日曜日

坂本城と明智光秀

今年のGW、「坂本城を考える会」の方による坂本城と明智光秀の
フィールドワークがあたので、参加してきました。

結構、よかったので、紹介したいと思います。

===

<当日、もらったパンフ>


さて、下の写真は、盛安寺にある、陣太鼓。
実際に光秀軍が使用していたと伝えられている。
500年近く前のモノだが、保存状態がよいのか、随分きれい。。。




下の写真は、坂本城跡にある明智光秀像。
坂本城は、今はなく、石垣などが琵琶湖内に残存しているのみという。
坂本城を考える会の方達が努力して、その研究や研究成果を立て看板
にして残している。

坂本城は、安土桃山城と並び、当時の名城と呼ばれていたらしい。
琵琶湖に突き出る形で築城され、比叡山延暦寺の押さえとしても
重要な城であったと言われている。

山崎の戦いで光秀が破れた後、子の秀満と共に落城。
秀吉の命により丹羽長秀が再建するも、浅野長政が大津城を築城した
ことににより廃城。資材一式は大津城に移ったとされる。


下の写真は、坂本家の墓。私有地だけど、一般公開されている。
昔から、この土地を穢すと、祟りが起こるとされているらしく、
現在も丁重に扱われている。

隣の企業の土地らしいけど、ちゃんと手入れがされていて、
とても素晴らしかった。

このような地域住民の歴史保存、再建の取り組みが、観光・地域振興、
ディスティネーションにはとても大切だと感じた。












当日は、ちょっと肌寒かったけど、息子と身重の嫁と3人で楽しく
参加できました。

機会があれば、このような地元の歴史を探訪するまた参加したいと
思います。



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