2014年6月15日日曜日

名古屋城、攻略!


先週の大阪城に続き、名古屋城も攻略してきました(笑)


私は、名古屋出身なのですが、実は、名古屋城には一度も
行った事が無く、城好きとしては恥ずかしいばかりです。。

当日は梅雨時にも関わらず、天候に恵まれ、とても奇麗な
天守と復元最中だった本丸御殿を堪能できました。





■天守
「尾張名古屋は城でもつ」と言われた程ですから、やはり
とても素晴らしい天守です。
大阪城に引けをとらない荘厳さがあり、御三家筆頭の城と
しても恥ずかしくない風貌を備えています。
清正流の扇の勾配で威風堂々とした天守台と巨大な天守。
それだけで敵を威嚇するのに十分な姿。
さすが三名城。熊本城、姫路城と肩を並べるだけはあります。





















■鯱
名古屋城と言えば、金の鯱。
建築当初は、200kgぐらいの金で作られていたらいしですが、
現在は、88kgらしいです。
(それでもすごいけど・・・)




















■西北隅櫓
現存する櫓の2つの内の1つ(1つは修復中)
小天守に負けないくらいの威風があります。
千鳥破風が内側(外からは見えない側)にもついており、
贅沢さといいますか、時の政権の巨大さが分かります。
水堀に面しているので、外側は近くからは確認できません
が、石落とし付きの千鳥破風でできた出窓が特徴的。
ちなみに、清洲城から持ってきた部材が使われている
という可能性もあり、清洲櫓とも呼ばれています。




















■徳川義直著、「夢」
天守内の博物館で観ることが出来ます。
名古屋城は、家康の9男、徳川義直の居城でした。
その義直が書いたものと伝わります。
通常であれば、9男は出家して当然の世の中。それが何か
の縁で、1国をまかされる大名になりました。
義直は、何を思って綴ったのでしょうか。



















■本丸御殿
現在、復元中ですが、既に一部が公開されており、中に
入れます。靴箱など、現代的にアレンジされていますが、
玄関以降は、当時の復元と思われます。
内装はとてもすばらしく、柱、襖、天井、どれも見事です。
熊本城の本丸御殿は、煌びやかでとても素晴らしいですが、
名古屋城の本丸御殿は、質素の中にも品が漂い、こちらも
またとても良いです。
ちなみに、今なら復元の様子が見られます。
(復元中に出た木の切れ端ももらえます)













2014年6月8日日曜日

大阪城に初登城!

ちょっと大阪に用事があり大阪まで行ってきました。
そのとき、たまたま横を通り過ぎた大阪城。
実は、一度も行った事が無く、せっかくの機会なので
立ち寄って来ました。

■天守
梅雨に入ったばかりの近畿地方ですが、今日は晴天に
恵まれ、とても奇麗な天守が観れました。
色々お城は巡っていますが、こんなに贅沢な天守は
初めて見ました。。。




















■大手門と千貫櫓、多門櫓
やはり大手はとても立派。
門をくぐった後の虎口も荘厳で、徳川の威信を掛けた難攻不落
の大阪城の姿を垣間見れます。

 <大手>















<千貫櫓(※現存)> 
<多門櫓>
















■蛸石
城内で最大の石。
岡山藩主の池田忠雄が寄進したそうな。
でも確か、福岡藩の黒田長政の担当区画だったという逸話を
聞いた事がある。。。(ちがったかな??)
















■金蔵
まぁ、金庫ってやつですよ。
過去に1度だけ盗難が発生したらしい。
盗人は市中引きずり回しの上、磔。
勘定奉行は、お取り潰しという厳しい沙汰がでたそうな。
















大阪城は、公園として整備されており、今日もとても活気に
あふれた場所でした。
日本には城が40000あったと言われており、少なくとも
各都道府県に1つは観光名所にできる城はあると思います。

これらの資源を有効に利用して、観光立国を目指していけたら
いいなと思います。







2014年6月7日土曜日

リーダーの条件2〜劉邦が歩んだリーダー論

張良、蕭何、韓信という三傑を従えて漢王朝400年の基礎を築いた劉邦。

ライバルであった項羽に比べれば、打倒「秦」の旗を挙げた時期も遅く、
また、戦下手であり決して優位とが言えなかった劉邦ですが、なぜ、幸運
の女神は劉邦に振り向いたのでしょうか。

これを考察する面白いエピソードがあります。
漢王朝を樹立した劉邦が、ある酒宴の席で家臣に問います。

劉邦「朕が項羽に勝利し、天下を平定できたのはなぜだと思う?」
家臣「陛下は家臣に対し、論功を惜しまず出したからです。項羽は勝利
で勝ち取った領地を家臣に分け惜しみました。ですから、家臣達は陛下
について行ったのです。」
劉邦「いや違う。朕は張良、蕭何、韓信をはじめとする有能な家臣を使い
こなしたからだ。項羽は范増、一人さえ使いこなせなかった。そこの違い
である」

面白い内容だと思います。
重要なポイントは2つです。

1つは、家臣の言葉から、劉邦は必ずしも人徳者ではなかったことが
伺えます。
家臣に論功を惜しまず行ったから家臣は劉邦についてきただけで、もし
そうでなかったら、ついてこなかったと言い切っているのです。そして
それに対し、劉邦は気にもせず、持論を切り出す。
ここに劉邦の寛大さがあります。劉邦は元は沛県の亭長(警察)でした。
身分は低く、学も無ければ、教養も無い。そんなことは自分が一番よく
理解しており、それを「事実」として受け止めていました
だからこそ、そのことを話題に出されても「自他共に認めていること」
であり、気にもしないのです。
自分の弱みを素直に受け入れる」ことができ、それを恥ずかしいこと
とは思わない。皇帝ですら弱みはあり、それを認め、人として家臣と
対等である。このような姿に、家臣は気づかずとも劉邦に心を惹かれた
に違いありません。

2つ目は、劉邦の言葉そのままですが、有能な家臣を使いこなす能力
です。
先にも書いた様に、劉邦には家柄も学もなく、一人で立身など出来る
はずも無かったのです。それを支えたのが自分より遥かに有能な人達
です。劉邦は、ほぼ丸呑みする形で家臣達の進言を聞き入れて行きます。
それは、有能な家臣にとってすれば、この上なく良い環境であり、
自身の力を存分に発揮できる環境であったと言うことです。

さて、これら2つの要素は、現代のリーダーに置いても必要不可欠な
要素です。
リーダーも人であり、部下(メンバー)に対して弱みを見せてこそ、
部下(メンバー)はリーダーを助けたいと思うもの。
また、部下(メンバー)の能力を最大限に発揮できる舞台を用意してこそ
リーダーというのものです。

率先垂範して事に当たる事は、リーダーとしてもちろん大切な事ですが、
時には部下(メンバー)に一切を任せてみる。リーダーは大きな方針を
示すのみを部下(メンバー)に語り、そのプロセスは問わない。
部下(メンバー)が残した結果に対してのみ評価する。。
もちろん、部下(メンバー)の失敗は自分の失敗として捉え、その失敗
には部下(メンバー)と共に対処する。
このような人間関係を築く事で、リーダーも部下(メンバー)も共に
成長でき、強い組織となるための1つの条件だと考えています。

<劉邦マンボウさん>