2013年6月30日日曜日

インカ帝国以前の王族の墓を発見

昨日のニュースです。




インカ帝国の前には、ワリ帝国があったことが知られているらしいですが、
詳細は、未だ、謎に包まれているとのことです。

面白いのは、ワリ帝国滅亡後、300年を経過して、インカ帝国が成立して
いるということ。そんなに年月が経過していながらも、ワリ帝国の文化や
支配方法などが引き継いでいているという。

インカ帝国という、世界史上の一大帝国・文明も、一夜でできた訳ではなく、
長い年月の積み重ねがあり、成立しているということであろう。

改めて、「ローマは一日にしてならず」を思い起こしました。

2013年6月23日日曜日

本能寺の変、明智光秀の黒幕はいたのか?

最近の歴史研究により、過去に私たちが教科書で習った事項とは
全く別の事象が証明されていることが多々あります。
鎌倉幕府の成立年もそうですね。最も、これは「捉え方」という
視点でもありますが。

さて、今回は、少し前にもテレビで紹介されたらしいのですが、
本能寺の変で明智光秀が織田信長を討った、あの有名事件が対象
です。

光秀が信長を討った本能寺の変。私が学生の頃は、光秀挙兵の
理由は、「土地を強引な転封」「徳川家康接待時の失敗における
叱咤のため」等がささやかれていました。
その後、朝廷の陰謀という陰謀説もありましたが、最新の研究では
「四国討伐」が関わっているらしいというのがあります。

当時、北陸方面軍の柴田勝家は上杉家を、関東方面軍の滝川一益は
武田家を、中国方面軍の羽柴秀吉は毛利家を攻めていました。
明智光秀といえば、四国方面を担当しておりましたが、ここは武力
攻略ではなく、長宗我部家と和解による攻略を光秀が進めていました。
しかし、信長は従来の方針を変えて、四国の武力攻略にでたらしい
のです。
それに面目を潰された光秀が、怒り心頭により、本能寺の変を起こした
という説です。

まだ、私の中で整理できていませんが、どの道、信長に対し、嫌気が
さしたことは間違いないのでしょう。









2013年6月22日土曜日

安土城跡

滋賀県、安土町にある安土城跡に行ってきました。

今まで、興味はあったのですが、城跡ということもあり、
積極的に行こうとは思っていませんでした。
今回、行くことにした理由は、ずばり、息子を遊びに
連れて行くため・・・という感じでした。
ですから、あまり期待していなかったのですが、その期待を
裏切られ、かなりいい城跡でしたよ。

<入り口から城跡を臨む>


この写真は、拝観料(500円)を払う入り口から山側を撮った
写真です。石段が永遠と続き、かなり登るは大変です。
ちょうど写真に写っている箇所は、羽柴秀吉の宅地があった
場所です。その向かい(写真には写っていませんが、右側)
に、前田利家の宅地があったと伝えられています。

さて、ずっと山を登って行くと、最後は天主跡に着きます。
当然、天主などないのですが、天主を支えていてた土台は発掘されて
おり、今でも見学できます。
ちょっと見た感じは小さめに見えましたが、実際はかなりの大きさ
だったということらしいです。
ちょうど、家と同じですね。基礎を見ると、小さく見えるけど、
実際建ってみると、大きく感じる。

<天主跡から琵琶湖側を臨む>


上の写真は、天主跡から琵琶湖側を撮影した写真です。
あまり天気がよくなく、残念ですが、天気がよければ、琵琶湖は
一望できたと思います。
信長が安土城を建築した当時、西側(写真側)は、すぐ琵琶湖
だったらしいので、当時であれば、この写真には、一面の湖だった
のでしょう。
琵琶湖は、淀川に通じる水路をもっていたので、長浜城や坂本城も
琵琶湖に面しており、水運を利用した経済圏を作っていました。


<天主模型>
 


















上の写真は、駐車場近くにあった休憩所に展示されていた天主の
模型。内部がわかる様になっています。
結構、大きく、じっくり見れました。


全体として、こじんまりとした城跡でしたが、やはり名城と言われた
安土城。跡となっても、深い感銘を受けました。

あまり調べられていないので、情報不足ですが、このような城跡や
現存の城を中心に、日本の歴史を少しずつ、復元してくべきだと
思います。そして、重要な観光資源として活用すべきです。

安土城は、
 ・京都に近く、日本の歴史が深く知れる。
 ・信長はかなり有名。
 ・滋賀は、自然豊かで、歴史のみでない。
 ・大阪も近く、交通の便がよい。
という利点もあり、しかけをつくれば、十分な観光地になると
思います。

ちなみに、これは、私が生涯を通してやりたいことの一つです。
もう少し、勉強して、夢を形に変えたいと思っています。

















2013年6月16日日曜日

坂本城と明智光秀

今年のGW、「坂本城を考える会」の方による坂本城と明智光秀の
フィールドワークがあたので、参加してきました。

結構、よかったので、紹介したいと思います。

===

<当日、もらったパンフ>


さて、下の写真は、盛安寺にある、陣太鼓。
実際に光秀軍が使用していたと伝えられている。
500年近く前のモノだが、保存状態がよいのか、随分きれい。。。




下の写真は、坂本城跡にある明智光秀像。
坂本城は、今はなく、石垣などが琵琶湖内に残存しているのみという。
坂本城を考える会の方達が努力して、その研究や研究成果を立て看板
にして残している。

坂本城は、安土桃山城と並び、当時の名城と呼ばれていたらしい。
琵琶湖に突き出る形で築城され、比叡山延暦寺の押さえとしても
重要な城であったと言われている。

山崎の戦いで光秀が破れた後、子の秀満と共に落城。
秀吉の命により丹羽長秀が再建するも、浅野長政が大津城を築城した
ことににより廃城。資材一式は大津城に移ったとされる。


下の写真は、坂本家の墓。私有地だけど、一般公開されている。
昔から、この土地を穢すと、祟りが起こるとされているらしく、
現在も丁重に扱われている。

隣の企業の土地らしいけど、ちゃんと手入れがされていて、
とても素晴らしかった。

このような地域住民の歴史保存、再建の取り組みが、観光・地域振興、
ディスティネーションにはとても大切だと感じた。












当日は、ちょっと肌寒かったけど、息子と身重の嫁と3人で楽しく
参加できました。

機会があれば、このような地元の歴史を探訪するまた参加したいと
思います。



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2013年6月14日金曜日

近江という土地〜大津百町

大津百町を知っているだろうか。

江戸時代、現在のJR大津駅を中心に栄えた商人の町並みを指す。

戦国時代、大津には大津城という京極氏が治める城があり、
関ヶ原の戦いで西軍の進行を妨げるなど、東海道の要所を治める
重要な拠点だった。
だが、江戸時代に入り、世が平安を迎えると、戦術的な要素を
失った城は、次々と廃城となり、大津城もまた廃城、膳所(大津市)
にその機能が移された。(天守閣は彦根城へ)
もともと大津城下町として存在した城下町は、そのまま商人都市
として栄え、町数が100ヵ町を数え、人口は18000人を超えており、
活況のある町が形成された。

大津百町の特徴は、その活況っぷりだけではない。
大津は、天領(幕府が直接治める土地)であり、代官が置かれて
いたが、代官配下の人数が少なかったため、ピラミッド構造的な
組織が作られた。今の企業体大組織のようなものである。

代官の下には、大津町人の代表として惣年寄りが置かれ、矢島・
小野両家が幕末まで世襲した。大津百町は10カ町ずつ7組に分けられ
各組の代表者が組惣代として置かれた。さらに各町には、町年寄と
それを補佐する五人組役が置かれ、寄合を開いて「町定」を制定し
自治が行われていた。
※ちなみに、大阪の境も同じような組織があったと言われている。

これに見られる様に、日本の組織は、ピラミッド型が旧来から
備わっていた。天皇を頂点とした国民的組織も大きくはこれである
今の日本人が組織に従順である理由も、1000年以上続いたこの習慣が
遺伝子レベルで遺伝しているからとも言われている。

一方、欧米はどうか?
人が集まる以上、組織がピラミッド化するのは、どこの国も同じ
であり、至極、一般的だ。
だが、その1つ1つのピラミッドは最小限の大きさであり、
ピラミッドの中でも上意下達ではないことが多い。
欧米の組織は、統制するためのものであり、上意を強引に下に
押し付けるものではない。日本とは全く異なる組織なのである。



2013年6月11日火曜日

相次ぐ地震で和歌山城の石垣崩れる

先日、このようなニュースサイトを見た。


相次ぐ地震で和歌山城の石垣崩れる


大変残念なことである。
今すぐに再建を進めるとともに、今一度、日本の歴史観光という
モノを振り返りたい。

言うまでもないことだが、世界で観光業は、シェアNo.1である。
日本だと、旅行消費額は、25兆円にも達する。

これほど、観光というのは、一大事業なのである。

それに対し、日本は何をしてきたか?

第一次安倍政権では、観光立国を目指したはずだが、あまり
具体策は聞こえてこない。
世界的に観光業を見ると、ディスティネーションとして、
長期滞在型の観光を進めている国が多くある。

もともと日本は、資源国ではない。自国資産を売ろうとしたら
何も無い。それこそ、スケールの小さい自然と、歴史、温泉
くらいだろう。

そうであれば、独特の歴史と温泉を組みあせて、日本の細やかな
気遣いで勝負するしかない。
グローバル企業が本社機能を日本に持ってきたがっているという
話をご存知だろうか?法人税問題で二の足を踏んでいるが、
その理由は「食事」である。日本は食が旨い。サービスがきめ細かい。

そういう意味で、今回の和歌山城は早急に復旧するべきである。

ただ、計画性を持たなければならない
多額の税金を、復旧して終わりという一過性のイベントで終わら
せてはいけない。

和歌山城は何をアピールするのか。
和歌山のグルメとどう結びつけるのか。
大阪・京都とタッグを組まねばなるまい。
交通も整備する必要がある。

そのような計画を、官民一体でやるべきだ。

近畿には、
歴史の京都・奈良、食の大阪、自然の滋賀・和歌山がある。

絶対に、人は呼べる。
間違いない。

もう、長期休暇は「テーマパーク」という遊び方に人は飽きている。
歴史と自然と食をミックスした長期滞在型の娯楽を作り必要がある。

ちなみに、私は、今、その準備期間である。















2013年6月6日木曜日

近江という土地(1)

大河ドラマ批評も一段落したので、今回から毎回テーマを絞って評論していきたい。

初回は「近江
※筆者が滋賀県に住んでいるので、選択しました。

====
近江は、「淡海」「近淡海」とも書き、琵琶湖を意識した名称であった。
これまで近江に天皇の住居がおかれたことは3回ある。
 大津京:天智天皇〜弘文天皇
 紫香楽宮:聖武天皇
 (伝)保良宮
戦国期は、六角家、浅井家が近江を支配しており、その後、織田家にて統一され、
名だたる織田家の有力大名たちが支配した。信長は、10年以上の月日を費やして
手中にした美濃の岐阜城を長男、織田信忠に譲り、自分は安土に豪華絢爛な安土城を
築いている。
その他、有力大名として、坂本城の明智光秀、長浜城の羽柴秀吉、佐和山城の丹羽長秀が
近江に居城を構えている。
信長が光秀に討取られ、その光秀を討った豊臣秀吉が政権を取った後は、豊臣政権の
中枢武将達が支配した。それは、八幡山城の豊臣秀次、長浜城の山内一豊、坂本城の
丹羽長秀、大津城の浅野長政、京極高次、佐和山城の石田三成。
江戸期になると、譜代大名の彦根藩(井伊家:15〜30万石)が最大の藩として存在し、
その後、膳所藩、水口藩と続く。
また、天領も多く、いかに近江が重要な地であったかが伺える。

意外と知られていない近江の土地を少しずつ紹介して行きたい。


2013年6月1日土曜日

大河ドラマ「平清盛」が訴えたこと。

さて、筆者が大河ドラマ「平清盛」を観た感想と、それが意味するところを述べてきた。
NHKが大河ドラマ「平清盛」を制作した意図は何だったのか?それを考察したい。

NHKが大河ドラマ「平清盛」で最も視聴者に訴えたかったこと。
それは、次の1点ではないかと考える。

心の軸をもつ」


これは、清盛の父、忠盛が清盛に常に伝えていた言葉である。


忠盛は、清盛に「心に軸を持て。心に軸を持てば、身体ができる」と伝えていた。この場合、「身体」とは、「行動する力、意思」だと筆者は考えている。
インターネットの普及により情報がより多く入手できるようになり、個人が多様な価値観に触れることができる現代社会において、「心の軸」ほど重要なものはない。

「自分は人生で何を成し遂げるのか。本当の幸せとは何か。」

この命題に対し、確信を持ち合わせている人は心の軸ができている人である。
清盛も「武家政権の確立」という夢を持ち、それに向かい、強烈な人生を生き抜いた。全身全霊をかけた。それは、清盛が若いときに忠盛から引き継いだ武家による統治と、貨幣経済による日本の活性化を心の軸としたからだ。
清盛の嫡男、重盛が死んだとき、清盛は平家の人材不足に気づいていなかったわけではあるまい。自分の夢は自分以外、誰にもなし得ないと悟っていたに違いない。それが故に、自らの足で夢を追いかけ、平家による日本の統治と宋国との貿易による国力増強、国民の活性化を夢見て、邁進してきたその勇気と行動力。
これこそ、現代の日本人に求められる姿ではないか。
筆者はそう思うのである。