2014年9月14日日曜日

国史「瀬田丘陵生産遺跡群」の1つ『源内峠製鉄所』



先日、家の近くにある公園に子供と散歩に行きました。
その公園から1〜2分程度歩くと「源内峠製鉄遺跡」という遺跡があります。

この遺跡は、7世紀頃の製鉄所を復元したもので、製鉄したと思われる炉が
3基存在します。写真は、その姿を写したものですが、ぱっと見た感じでは、
何かの美術品のような形です。
近づいてよく見てみると、おそらく、円筒状の箇所で鉄鉱石を焼き、
その下の受け皿みたいな所で溶け出した鉄を抽出したと想像できます。














現地では、あまり詳しいことが分からなかったので、帰ってから色々調べて
みました。

源内峠製鉄所は7〜8世紀頃の遺跡です。
当時、日本は、藤原広嗣の乱に見られるように、まだ朝廷の力は十分とは言い難く、
近江にも紫香楽宮、大津宮などの都が造営されていました。
近江は、おそらく鉱山があったと考えられ、そこから得られる鉄は、
日本を統治する上でも重用視されていたに違いありません。
それを象徴するように、近江には、製鉄所が60カ所以上も存在します。
この公園付近にも、製鉄遺跡が数カ所存在し、「瀬田丘陵生産遺跡群」
として国史指定もされているようです。(知らなかった…)

有名な言葉ではありますが「近江を制するものは天下を制す」と言われますが、
それは、京都と東国を結ぶ要地という地政学上の話だけではなく、鉄資源という
要素も含まれていたに違いありません。
実は、『続日本書紀』にも、これに該当すると思われる記述(巻3)があります。
大宝3年に四品志紀親王(シホンシキノミコ)が、近江の鉄穴(カンナ:鉄鉱山)
をもらったという記述があります。

源内峠製鉄所。
今まで、7〜8世紀の遺跡を詳しく調べることはなかったのですが、
こんな身近に、当時の日本事情を推測できる遺跡があるとは知りませんでした。

私は戦国時代が大好きですが、もっと身近な遺跡にも興味を持ち、少しずつ
掘り下げて行きたいと思いました。






2014年9月7日日曜日

藤堂高虎の本拠地〜津城



三重県—津市に用事があったので、津市に行ったところ、
たまたま通りがかった津城跡(現、お城公園)に行って来ました。

■石垣
築城の名手、藤堂高虎が治めた津藩でありますが、
石垣は、高虎っぽく、奇麗にまっすぐな縁でした。












■藤堂高虎公
高虎は、何度も君主を変えていますが、
最後の君主、徳川家康からはとても重宝され、
外様ながらも譜代さならがらの待遇を受け、
家康の死に際しては、枕元にいることを
ゆるされた大名でもあります。

藤堂高虎は武勇や築城技術に優れており、
自身が活躍できる場を探し求めた結果、
君主を何度も変える事になったのだと思います。
今では、戦国時代の武将は君主に一生仕え、
その忠誠心を見せるものだという概念が一般的ではありますが、
実際には、そんなことはなかったと伺えるのが、この高虎です。
戦国時代、明日の命も分からない、その日暮らしの時代であり、
信じるものは自分の腕と頭だけでした。
その自分がどのような場で活躍できるか、それを考えて配置するのが君主です。
つまり、自分が活躍できる場にいられない限り、その君主の元を去るのは当然です。

これは、現代の会社組織にも当てはまると思います。

高虎の様に、自身の力量を認め、活躍の場を与えてくれる組織に出会うまで、
転職を繰り返すものありかもしれません。

■おまけ